昭和54年12月31日 朝の御理解



 御理解 第21節
 「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」

 信心なければ心が闇なり。信心なければ家庭が闇なり、というてもいいんじゃないでしょうかね。果たして自分の心が信心の光で、おかげを頂いているだろうか。自分の家庭が信心しております。おかげで明るい家庭であろうか。でないならば自分の信心は本当のものじゃない。そういう例えば信心者が、なら世界中に広がったところで、大したことはないということになります。ただ我情我欲のものであったとするならば、やっぱり世界は闇であります。
 光を持たないものが千万集まったとことで大したことはありません。信心なければ心が闇なりと言う風に頂いて、ならお互いが信心をさせて頂いとるから、どれくらいの信心の光が心に、心をしめておるかということなんです。ながなか心に光が頂けるということが信心なんですだから。よくそのおかげ、おかげというておかげを求めるより、信心を求めよというふうに言われますけれども、それはおかげを求めてよいのです。また私共は求めずにはおられないのですからね。
 けれどもそれだけであってはならないと。わが心が神に向かわなければいけないということなんです。わが心が神に向かうのが信心というのじゃと仰るのですから、おかげにもいってはならないじゃない。おかげにもいてもいいのだけれども、心が神に向こうてのおかげでなからなければならん。信心しよりゃおかげおかげを願っちゃならんということじゃない。もう願わなければならないしまた願わずにはおれない。
 けれども確かなところに自分の心が神に向こうておらなければ、信心に向かっておならなければ、いわいる心の光は頂かれません。信心しておっても心は闇なりであります。だからそういう闇に人いうなら我情我欲の人が、千万集まったところで世の中が明るうなるようなことはありわしません。教祖様は世界が闇と仰っておられるのは、信心による心の光をもったものが、集まるということ、そこにいわいる明るい光、いうなら神の願いの世界。というものが出来て来ると思うです。
 昨日はお正月のお花が、各部屋部屋に活け込みがございました。今の脇殿のあの大きな襖をこう開くと見事な花が、もう本当に見事な花が生けてあります大きな松が。もう客殿からもう各部屋部屋に本当に見事な、今の竹内先生がいつも担当されますから、もうしかもなんというでしょうかね。見事っていうだけじゃなくて賓があるですね、やっぱなんでもそうですばい。字でもそうです。やっぱその人の心がでるです。いわゆるその賓客という心の賓客のある人には、やはり字にも賓客がある。
 もうなんでもそうです。お花でもそう。もう一通り終わったから、あのういっぺん見てくれと言われるから、ここにある程いっぺん通り回らしてもらいました。本当にあのう心がそれこそ、清まるような花が入れてございます。ならどんなに素晴らしい心の状態が良い人でも賓のある人でも、なら初めからそういう良い花を入れられるとは思われません。始めは一つ一本一本のいうなら木取りから、始めてそして稽古に稽古を重ねて、始めていい花が生けられます。これはもう花だけではありません。
 もう稽古ごとの全てがそうです。一つ花なら花をいっちょしっかり覚えて、体得させてもろうて、そしてお花の先生でもさせてもらおう、お茶の先生でもさせてもらおう。もうそれはすでに生活に繋がってるんです。この花でいうならば、飯を食べようというのですから、ただ自分の趣味やら娯楽で、好きでするという人もありますけれども、だからいうならばもう一生懸命に覚えてね、そして師匠先生の資格を取って、人にでんも教えられるような自分にならせてもらおうということは。
 あの生活がかかっておる訳ですから、それだけ一生懸命に稽古もやっぱする訳ですけれども。生活が懸けられては、信心やそのそのなんの事でも稽古事はできんということはないということが分かりますよね。いやもう自分なもうその先生やらはならんでんよか、ただちょっと一通り覚えておきたいという程度の人も、またあってよかわけです。信心信心っちいうておかげ、おかげを言うてはならんというのじゃないです。お互いが信心によって幸せになりたい、とこう幸せを願わない者はありません。
 だから幸せになりたい、なら信心しよれば幸せになるかということじゃないのです。おかげも頂き頂き、信心の方も神様へ向かって一歩一歩神様へ近づいていく。そういう信心がなされなければ、信心によって幸せになると言う様な事はありません。信心によって心に光を頂くと言う様な事はでけません。だからおかげを願うちゃならん、おかげを頂いちゃならんじゃないです。信心によっておかげを頂きたい幸せになりたいと。ところが信心の方は一つも神様の方へ向かわずに。
 ただおかげをおかげをというて信心しとるように思うおる。おかげをしておるのであって、おかげを頂くことに、まぁ終始しておると言った様な事ではいけない事が分かりますでしょう。決してならおかげをいうてはならんじゃない。幸せになろうなんて思うことはならんというのじゃない信心は。幸せになりたいからこそ、おかげを頂きたいからこそ信心をする。だから信心をしなければいけない。なら信心とはわが心が神に向こうていくのを信心をいうのじゃと仰るから、向こうて行きよらなきゃいけん。
 去年よりも今年と言う様に、自分の心の光が大きくなっていきよらなければいけない。ところが何年たってもおかげを頂いたときは嬉しい有り難い、勿体無いだけれども、でない時は心が暗い。いうなら信心のある者のない者も、きょびの変わりがないと言う様な信心ではです。千人万人集まったところで世の中は明るくなりませんよね。お花の稽古をするのと同じ事、お花の稽古をしっかりさせてもろうて、良い花それこそ人が見惚れるような花の生け方も覚えよう、いや行く行くはこの花で一つ飯を食おうと。
 そういう下策かこつを言うちゃならん、思うちゃならんち言う事じゃ決してないです。人間のいうなら生き様というものとうものはです。いうならば自分の願いが成就する事の為の生き方がなんで悪いか、信心によって幸せになろう。そげな神様でんなんでん頼らな、自分の自力で幸せになれと言う様な事をもっともらしよる人がありますけれども、もう、これは絶対幸せにはなれませんです。もう第一ねこの世の中では儲かったかもしれません。健康であったかもしれませんけれども。
 あの世ではです。もうそれこそ地獄の沙汰も金次第というけれども、極楽の沙汰だけは、金次第と言う訳にはいかんのです。あの世で幸せを頂くもう絶対に信心がなからなきゃ極楽行きはでけんです。はぁあんたは生前とても心がやさしい人じゃったから、良い心の人じゃったからと言う様な事じゃ。それこそ自分の信心によって頂く心の光そのものが、あの世で光明世界に住む事が出来るのです。やっぱりこの世でも蔵の闇であったならば、あの世でもやっぱり暗闇です。
 これは真の信心によらなければ出来る事ではないのです。地獄の沙汰は金次第かもしれんけれども、極楽の沙汰だけは金次第という訳にはいかん。そこで私共がおかげを頂かんならん、幸せにならんならんなら、為に信心をすると。その信心とはわが心が神に一歩一歩近づいていく、神に向こうていくということが信心じゃとはっきり教えておられる。信心は何年何十年しとるけれども、心が言わば晴れやかではない、安心の心生まれてこない、喜びが湧かないというならばですよ。
 そしてまたおかげを頂いたお願いをした。あぁ本当に、神様ちゃ有り難いというておる、その時だけの有り難いでは役には立ちません。心の光を頂かせて頂くことが、信心だということ。今心の頂く為にはおかげというものは、一辺そこに置いとかなきゃならないかと言う事では決してありません。お願いしお願いしおかげを頂き頂き、やはり心は神に向こうておらなければいけない。いうなら日々教えの実験実証が成されていかなければ、心に安心も豊な心にも育ちません。
 信心しよるからいつかどうかなるだろう、こげなこっちゃ決してどうにもなりゃしません。わが心が神に向こうのを信心というのじゃと。おかげおかげと言うてはならん。信心でいかんならんというふうに言われますけれども、それもやはり私共人間であれば、誰だってその日その日が嬉しゅうありがとう、しかも人間の幸せの条件というものも求めておるのですから、そういうおかげも頂かなきゃなりません。だからそのその事だけを願うと言う事は信心ではないと言う事。
信心とは自分の心が神に向かうのだということ。神に向かう神に近づいて行けば行くほど心に生まれてくるところの光は、いやが上にも大きゅうなっていく。心に安心の喜びというものが段々本当のものになっていく。そういう本当のものになっていくに従って、本当なおかげがそれに伴うてくる。そういうおかげを頂きたい。信心ただ信心というて、わが心が神に向こうて、おらなければならないおかげなんかと言う様な事を言うと、それは本当の信心じゃない。
 ご利益ご利益ということは、本当の信心じゃないと言う風に決め付けて言う人もありますよね。ご利益を受ける宗教は低級だと行った様な風にさえ言う人があります。いや極端にいうとそういうのは邪教だとさえ言う人があります。そんな事は決してありません。人間が人間らしゅう生きていく、そういう人間らしい行き方が出来るための信心。それも結構。同時にです。ならわが心が神に向こうていくという、いうならば信心にならなければならない。信心とはわが心が神に向こう。
 神に一歩一歩近づいていけれる、いうならば自分の心の信心の喜び、信心の光が段々大きいものに育っていくという信心を目指さなければならない。そしておかげも頂いてまた願うていかなければならない。皆さんここんところ一つ繰り返し繰り返し自分の心の中に畳み込むように頂いて帰って貰いたいと私は思います。果たして今日一日がです。どれ程神様に向こうたかと。ならどう言う風にして神様に向かうかと結局教えを実験する。そしてそれを実証というおかげにしていくと言う事以外にはないと思うです。
 私は昨日そのお花を見せて頂きながらです。やはりその人の人柄というものがお花の上にも現われてくる。人柄が良いなら人柄が良いから、花が生けられるかというとそうわけにはいかん。人柄がようてしかも稽古に稽古を重ねたところに、本当の素晴らしい花が生けられるように、まず人柄がよいそこに信心がある。信心が育っていく。なんとも言えん。それこそ真善美に輝くようなおかげの世界に住むことができる。しかもそういう世界はこの世だけではない。あの世にも繋がっていく世界の道が開かれる。
 信心による貧争病のない世界。真善美に浸らかせて浸らせして頂けるような信心。様々の願い事がある難儀がある。その願い事難儀な事を通して、んなら真の信心とはと真の信心を目指して行くと言う事がとりもなおさず、心が神に向かうと言う事でございます。信心とはわが心が神に向かう事じゃと。信心なければ世界が闇。なら金光さまの信心する人が世界中に広がりましても、ただおかげが頂けるからご利益が頂けるからという人が世界中に出来た所で、世界が明るくなると言う事はありませんよね。
 我情我欲の「自分がよかさえすりゃよか」と言った様な信心では、銘々の持っておる信心の喜び信心の光がです。十も集まれば10燭百集まれば百燭光と言う様にです。心に信心の光を頂いた人が、広がりに広がっていって初めて世界。明るい世界という明るい社会というものが生まれて来るのです。どうぞ一つわが心が神に向かうと言う事は、自分の心に信心の光がともると言う事だと言う事でございます。
   どうぞ。